「自分もサッカー諦めて、就職しないといけないのかなって」
高校卒業後はプロ入りを見据え、関東大学リーグでのプレーを志願。親元を離れ、東京国際大学へ進学した。
しかし、待ち受けていたのは苦難の日々だった。
「高校生の頃と真逆で、トップチームに絡めない、試合に出れない期間がすごく長くて。精神的にとてもキツかったですね」
支え続けてくれた両親の存在を思い浮かべると、現状に対してある種の罪悪感に苛まれた。
目標との距離が縮まらない中、一時はスパイクを脱ぐことさえも考えた。
「試合に絡めない日々が続いて、3年生ぐらいになると、みんな就活が始まってきて。
周りに流されながら、自分もサッカー諦めて、やっぱり就職しないといけないのかなって。その時は公務員になりたかったので、試験の勉強を始めたり…」
何よりも優先してきたサッカーは影を潜め始め、サッカーに費やしてきた時間を「就活」に充てるようになった。
しかし、常に心の中には居心地の悪さが残り続けた。
「4年生の夏になって、シーズンが終わりに近づくにつれて『このままじゃダメだな』と思ったし。
その時は、お兄ちゃん(川内 真一選手)がオーストラリアでサッカー選手をしてる姿を見てたので。俺も1回きりの人生だったら、後悔しないように『できるところまでやってみよう』と思って、プロに挑戦することを決めました」
大好きなサッカーに向き合い続け、夢を叶えることこそが「親孝行」なのでは。自らの中で1つの答えを見出し、再び「プロ」に照準を切り替えた。
ただし、日本国内でのプロ入りは、現実的にも厳しく感じたようだ。
「日本でプロになるのが、自分的にもすごく厳しいなと思ったので『プロになる=海外に出る』っていう感じでしたね、自分の中では。
最初は、大学時代のコーチの繋がりで、オーストラリアに行かせてもらえる話になったんですけど、結局コロナの影響でオーストラリアに入国できなくなって。
その時に、友達からエージェント会社を紹介してもらって。代表の方と話した時に、リトアニアだったり、ラトビアだったり、マルタだったり。そうした国々の1部に挑戦できる話を聞いて『じゃあ、そっちにシフトチェンジして頑張りたいな』と思ったんですけど、やっぱりコロナの影響もあったし。
関東の大学に4年間通わせてもらったこともあって、大学卒業と同時に海外に行って、これ以上親に迷惑かけるのは違うなと思って」
新型コロナの拡大状況や金銭面を考慮し、卒業後の進路には「社会人サッカー」を選択した。
「社会経験だとかも含めて、1年間サッカーと社会人を両立した上で、自分でお金を作って海外に行こうと思った時に、VONDS市原さんが自分に1番合ってたというか。それでVONDSさんに入団させてもらうことにしました」