「中学と比にならないぐらい苦しかった」苦難の専修大時代
横浜FCユース卒団後は、専修大学へ進学。多くのプロ選手を輩出する強豪校でしのぎを削る中、またしても出場機会には頭を抱えた。
「大学4年間は今までで一番苦しくて、中学と比にならないぐらい苦しかったです。
まず大前提に、大学で試合に出ないとプロになれないので、試合に出てないのが一番苦しくて。
専修大学にはスポーツ推薦で入らせてもらったんですけど、Aチームにもいない状態で、Bチームにいて。むしろCチームに落とされるか、ぐらいまでいった時期もあったので。
試合に出てない4年間っていうのは、本当にきつい期間でした」
言うまでもなく、選手にとっての「試合」の存在の大きさは計り知れない。
一方で、日々の取り組みに対する姿勢にも変化が生まれた。
「本当に落ち込んでたような時期もあったんですけど、途中からはもう割り切って。
Aチームに上がるとか試合に出るとかじゃなくて、ドリブルの精度とかシュートスキルを上げるとか、自分の成長だけにフォーカスしてからは、やっぱり成長したかなっていう自覚があります」
モンテネグロ到着直後の骨折、日本でのリハビリを経て”2度目の挑戦”へ
専修大サッカー部で苦難の日々を過ごす中、徐々に卒業が近づくにつれて、本格的に「海外」を視野に入れ始めた。
「高校2年の時にイギリス遠征に行ったんですけど、その時にアーセナルの試合を観て、ウエストハムのユースとかとも試合をして。サッカーが根付いた”文化”を感じて、その時から何となく海外に行きたいなとは思っていました。
大学3年次には、J2のあるチームに練習参加する機会があったんですけど、自分のプレースタイルとかを考えたときに、Jリーグで自分が活躍できる姿をあんまり思い描けなくて。
なので、大学3年の終わりか4年のはじめには、もう『海外に行こう』と決めていました」
4年次の冬には、トライアウトに参加するため、東欧諸国の1つであるモンテネグロへ渡航。
しかし、到着2日目のトレーニングで第5中足骨を骨折。早々に離脱を余儀なくされた。
「もう『悔しい』とか、そういう感情すら湧いてこない状態で。
医者には、疲労が蓄積していて、自分で軽くボールを蹴ろうとした時に折れたって言われたんですけど。
あっけなく折れすぎて、落ち込む暇すらなかったって言うか。
骨折してからトライアウトの試合とかも観たんですけど、そこで自分が活躍できるイメージは沸いたので、『一旦日本に帰って、また治療して戻ってこよう』っていう気持ちでした」
帰国後は、手術の末に、トライアウトへ向けたリハビリを開始。
負傷から約半年が経った2021年7月には、再びモンテネグロへ渡航。
「2度目の挑戦」の末、OFKムラドスト(当時国内2部リーグ所属)との契約を勝ち取った。
「もうめちゃくちゃ嬉しかったですね。
2週間ぐらいチームに練習参加していて、最初の週は良かったんですけど、最後の練習試合はグランドもボコボコで、相手の方がチーム力もあって、本当に何も活躍できなかったので。
その時は落ち込んでたんですけど、合格を頂いて本当に嬉しかったのを覚えています。
そのためにやってきたので、すごく嬉しかったです」