大ケガに涙した2023年、苦境超えてACLの舞台へ「ゴールで価値を証明したい」【田中 幸大選手インタビュー|前編】

田中 幸大選手
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「サッカー辞めようとしてたんですよね」

晴れてマリノスの一員となり、中学生年代はU-15に在籍。その後は東海大学付属甲府高校に進学し、サッカー部に入団。

卒業後は拓殖大学に入学し、2年次には37年ぶりの全国出場に貢献。3年次からは「10番」を身にまとい、11年ぶりの関東1部リーグ昇格を果たした。

「自分的には、大学3年は結構活躍できて、関東2部のベスト11に選ばれて。当時のメンバーは、流経から浦和レッズに入った安居選手だったり、川崎フロンターレに入った佐々木選手だったり。宮本 優太選手、伊藤 敦樹選手…。1個下なんですけど、それこそマリノスに入った村上選手とか。

もう凄いメンバーの中に僕がポツンと入って。"プロにいける自信"っていうか、プロをちゃんと意識し始めたのがその頃です」

4年次には、地域別選抜チームによって行われるデンソーカップに出場。負傷により出場機会には恵まれなかったものの、関東C・北信越選抜として2試合に出場し、準優勝を達成。

初の舞台となる関東1部リーグでも得点を重ね、リーグ戦前期は得点ランクトップタイに名を連ねた。

「僕はもうそのタイミングで内定が決まって、2種登録か何かで(プロに)行きながらっていうのをイメージしていて。点も決めていて『いける』自信もあったんですけど、声が掛からず。

練習参加は行ったんですけど、結局声が掛からずでした」

周囲の同年代のプロ入りが決まっていく中、自分は決まらない劣等感。焦燥感に駆られる日々が続いた。

「だいぶ落ち込みましたね。チームが降格圏にいる中での得点ランクトップタイは価値があると思ったんですけど。ただ、それは他の人、第三者が決めることであって。

『なんでこんなに点取ってるのに、声が掛からないんだ』という、はっきり言うと"ムカつく気持ち"は、Jのスカウトの方々に対してもあったので。

それをうまく力に変えることができなかったのは、自分の力不足だったなと思います」

自身の評価と他者の評価。両者の乖離は、自らのモチベーションにも大きく影響を及ぼした。

「『これで無理ならどうすれば良いんだ』っていう思いと、同時にチームが残留争いをしている状況で、"自分のエゴ"を出せない状況。

4年生だったし、3年から10番を着けさせてもらっていて。"昇格させて降格させた10番"と思われたくない思いが、すごくあったんですよ。

でも自分は『プロに行きたい』という葛藤もある中で、そのコントロールをうまくできなかった」

「チーム」か「個人」か。ピッチに入れば全員がチームの勝利を目指すものの、その外では個々人がそれぞれの思いや考えを抱く。それこそがサッカー、ひいては団体競技の性だろう。

究極の2択に頭を抱えながらも、自分自身で「答え」を探し続けた。

「僕はそこで『プロになりたい』という気持ちよりも『チームを残留させたい』気持ちの方が強くて。

だから得点にこだわるよりも、チームのために走って、どんな形でもいいから点に関われるようにプレーしたいなと。

するとアシストの方が増えちゃって、自分が"アシストする側"に回ってしまって。そんな感じなので、何チームか保留は貰ったんですけど、もちろんプロに行ける訳もないし」

チームを優先する気持ちと反比例するように、自らがゴールネットを揺らす機会は徐々に少なくなった。

「結局シーズン終盤の11月後半ぐらいかな。本当にサッカー辞めようとしてたんですよね。正直自分の中でも、ある程度燃え切ったというか。

チームを降格させないで済んだこととか、色々背負ってきたものがあったと思うんですけど。それで燃え尽きちゃった部分も、多少なりともあって」

最高学年、背番号「10」、チームの降格危機...。役目を果たした安堵とともに、数え切れない時間を費やしたサッカーとの決別さえも考えた。

そんな矢先、国境を越えて、あるクラブからオファーが届いた。

「『辞めようかな』と思ったタイミングで、アルビレックス新潟シンガポールから声をかけてもらって。

元々、海外に行きたい思いはすごくあって。若いうちじゃないとできない経験なので『やってみたいな』と思って、行かせてもらうことにしました」

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